「お人よし日本」は今に始まったことではない。
2ndシリーズ②「平和ボケ」日本の幕開け
満洲には当然、満洲人がいます。そして満洲は満洲人だけが居住する地域かと言えば、それは違います。清が定めた満漢間の通婚禁止令を無視して、漢民族が勝手に入殖しまくっていました。張作霖の実父・張有財などはその典型です。こういった一族が、地元のギャング(軍閥と呼ばれる)となっていきます。
満洲には、モンゴル人もいました。万里の長城の中の伝統的な漢民族固有の領土を支那と呼びますが、その支那本土と満洲との境目に山海関という要塞があります。その山海関から北東へ行ったところに錦州があります。錦州は、張作霖の息子・張学良が拠点とした場所で、石原莞爾が空爆を行った場所です。
この錦州まで、当時は蒙古人がいました。モンゴル人の活動領域は広いもので、現在の中華人民共和国の内モンゴル自治区がかつての満洲の地を含んでいるのはこのためです。
したがって日本の権益をめぐるこの地での問題を、満蒙問題と呼ぶわけです。土地の名で言えば満洲ですが、ここには満洲人もいるし、モンゴル人も、もともと定住民族ではないのでこのあたりまで広がってきているわけです。当時、満洲にいた主要民族は、満・蒙・漢の三民族ということです。
そしてそこに日本人と、一九一〇(明治四十三)年に日本が併合した朝鮮人が入って活動を始めます。これで満洲は、日本人・朝鮮人・満洲人・蒙古人・漢人の五族が協和する国ということになるわけです。
日露戦争は、一九〇五(明治三十八)年九月四日のポーツマス条約と、同年末十二月二十二日の北京条約(満洲善後条約)の二本立てで整理がつくことになります。ポーツマス条約は、戦争を終結させるための日本とロシアの間での講和条約です。北京条約は、日本と清の間で締結された、満洲その他の日本の権利についての秩序整理のための条約です。
日露戦争なのに、どうして清が出てくるのでしょうか。日本とロシアはポーツマス条約で清をさておき、「東清鉄道の内、旅順・長春間の南満洲支線と、附属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する」とか、「関東州の租借権を日本へ譲渡する」とか、勝手に清での勢力圏を決めたからです。この年の北京条約は、それを清にのみこませるための条約でした。関東州とは、旅順・大連を含む遼東半島南端部のことです。
日本は、ポーツマス条約でロシアにつけた話を、ただ、力ずくで押し付けたわけではありませんでした。日本は「満洲は清の主権下にあるということをこのたびロシアに認めさせた。したがって、ロシアから譲渡された権益は、その移動については主権者たる清の承認が必要である」と考えたのです。日清戦争で朝鮮を清の冊封から開放して独立させた初代内閣総理大臣伊藤博文を筆頭に、非常にお人よしです。満洲においては、実質として北はロシアが権益を持ち、南は日本が持ち、形式的にはあくまでも清朝が主権を持つ地域である、としたのが一九〇五年北京条約です。
この条約締結のときの秘密議事録に「満鉄並行線の禁止」があります。ロシアが建設した東清鉄道の、長春以南の南満洲支線は、日本に譲渡されて南満洲鉄道となりました。一九〇六(明治三十九)年に設立された「南満洲鉄道株式会社」はその運営会社です。略称は「満鉄」です。鉄道というのは大権益、権益中の権益です。商売の根幹であり、生活の根幹です。鉄道に付帯して、さまざまな事業計画が行われるからです。
並行線というのは、もう一本、同じ導線を持つ鉄道を別につくる、ということです。満洲でこんなことをされたら、日本は商売になりません。事業規模からすれば、京王線と小田急線の熾烈なダイヤ争いどころの話ではありません。だから、これを禁止する約束をしたわけです。
しかし、支那人【こいつら】は約束を守りません。後の一九二〇年代からのことですが、張作霖、張学良の父子ギャング(軍閥)が二代にわたって「満鉄包囲鉄道」を事業展開しました。満鉄の東西に二本、つくりました。さらに、蒋介石の南京政府は三本つくれ、と言ってきます。あげくには、「日本の中央線と東海道線は並行線ではないか」みたいなことまで言い出します。状況が違いすぎるものを一緒にされても困るのですが。
そもそも約束を破ったことが問題である、という話は通じません。こういう人たちを相手に日本は約束を守り続けました。
こういうことを書くと「中国人に対するヘイトスピーチだ」「侵略の正当化だ」とか言い出す人間が出てきそうなので先に書いておきます。以上の記述は日本人を罵倒してるのです。国際政治とは、そういうものです。
『学校では教えられない 歴史講義 満洲事変 ~世界と日本の歴史を変えた二日間 』より抜粋
次回は、2ndシリーズ③桂・ハリマン協定にまつわる誤謬です。です。
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